徒然なるままに。

徒然なるままに日々のこと。なんちゃって教員の備忘録。

学びを次世代へ

今日は附属国際中等教育学校で、自身が専門で学び実践してきた「ライフヒストリー・インタビュー」をもとにインタビューと研究についての授業をしました。まさかの指導教官とのコラボ授業です。
国際中等の子供たちは、カリキュラムで中学一年から研究の一歩を学んでいきます。その入り口となる位置付けの授業でした。
100人を越える中学一年に飛び込み授業というのは、かつてないチャレンジでしたが、研究の集大成であるこの時期に、自身の学びを次世代に伝えられること、そしてお世話になった指導教官と授業を出来ることはこの上ない喜びでした。
子供たちの振り返りには、私のねらいを遥かに越えたものも・・・。授業後の指導教官から「授業をしてるとき、別人のように生き生きしてたよ」との言葉が、何だかいつまでも心に響いた一日でした笑。お世話になった皆様ありがとうございました。

この4カ月ほどの取り組み

 約3カ月ぶりのブログとなりました。

  この3、4ヶ月ほど、取り組んできたことに論文の執筆があります。この2年間取り組んでいるメインの論文とは別に2本の論文を仕上げることにチャレンジしてきました。メインの研究論文を差し置いて別の論文を書くという、相変わらず無謀な後先考えずにやってしまう自分が愛おしくて仕方ない今日この頃です。

   どちらも取り組む機会を頂きチャレンジしたのですが、別の理由として『普通は2年間で一本仕上げる論文を3つも書いていれば、私の大学院派遣に対する悪友たちからの「税金の無駄」との説得力ある指摘に反論できるのではないか』との浅はか過ぎる仮説の存在がありました。案の定、自分の力のなさを思い知った3,4カ月でもありました。

   しかしながら、1年目に比べて授業の負担が少ない2年目だからこそ、出来たチャレンジであったと思います。もちろん、これだけに時間を割いてきたわけではありません。あれやこれや公私含めてありましたので、大変に忙しい日々ではあったのですが、めいっぱい学べた4カ月でもありました。後悔はありません。まだまだ修正は必要なのですが、先日、どちらも第一稿の終わりが見えてきてほっとしているところです。

 この間、このブログも放置状態でありましたが、少しずつ、また綴っていきたいと思います。日々書くという作業を通して、自分の記録を残すことはもちろん、文章を書く作業を通して言葉で考える習慣をつけていきたいと思います。もちろん、この4カ月も論文を通して書く作業はしてきたのですが、論文とブログでは文体も目的も異なりますし、どう考えてもブログの方が気が楽に書けます。色々書き溜めたネタもありますので、少しずつ出していけたらと思います。数少ないマニアックな読者の皆様。今後ともよろしくお願いします。

 

それでは次回のブログは3か月後とします。ごきげんよう

ウヴェ・フリック , 鈴木 聡志 訳『質的研究のデザイン (SAGE質的研究キット) 』,2015. 第4章

第4章について
ウヴェ・フリック , 鈴木 聡志 訳『質的研究のデザイン (SAGE質的研究キット) 』,2015. 第4章
「質的研究のデザイン」について
 
〇研究デザインとはなんだろう?
 
研究デザインとは研究の焦点を減らすことらしい。あれこれややこしくしないで焦点を定めるってことなのかな。
 
 
この章はRaginのこんな言葉の紹介から始まっている。
 
研究デザインとは、研究者が提起した問いに答えることを可能にする、証拠の収集と分析のための計画である。1つの研究についてのデザインは、 データ収集の細部からデータ分析の技法の選択まで、研究のほぼすべての側 面に及ぶ。」 (Ragin, 1994, p.191)
 
 
質的研究が良く批判される曖昧さ。
マイルズ とヒューバーマンわざわざ、
 
「あなたが聞いたかもしれないこととは反対に、 質的研究のデザインは存在するのである」(Miles & Huberman, 1994, p.16)
 
と 指摘している。
 
質的研究の研究デザインのとらえについて、様々な人たちの定義やモデルを紹介しているんだけど、ある意味、どれも量的研究との違いをあえて際立たせるために定義しているようにも感じられた。
 
 
〇デザインの構成要素とトライアンギュレーション
 
研究デザインの構成要素として、サンプリングや意図された比較、意図された一般化、読者と執筆などがあげられ検討されているのが面白かった。研究デザインというものを単なる計画書のようなものでとらえるのではなく、研究全体に与える要素として述べていたからである。
 
大学院で何度も出てきた言葉「トライアンギュレ―ション」にも触れられており、一つの方法論的アプローチだけでなく、研究視覚を洗練、熟考することで研究デザインをより確かなものへと変容させられることを述べている。
 
自分の大学院では定期的にグループと呼ばれる単位で、各自の研究を検討し合っている。量的研究の人もいるし質的研究の人もいる。こうした取り組みは、トライアンギュレ―ションと言っていい。
また、自分が関心のある質的研究と量的研究の混合アプローチもトライアンギュレーションとしての考察である。
 
 
〇2つの研究事例
 
この章で紹介されていた2つの研究事例は、述べられてきた解説の実際を事例を通して理解することができ有益であった。事例を通して説明されていることで、研究当初にあった包括的で複雑な関心が焦点が定まった研究へと進化していくかが理解しやすい。
 また有名な専門家たちでさえ、予定にはない事態に制約を余儀なくされながら、すすめている様子が感じられ。(特に質的研究はその傾向が強いように感じる。)親近感がもてた(笑)。研究そのものに七転八倒して取り組んでいるのは私だけじゃないさ。
 
 
〇立ち戻る場所。 リサーチクエスチョン
 
要するに良いデザインは明確な焦点をもっていて、明確なリサーチクエスチョンがあることだという。
 
『研究デザインとリサーチクエスチョンによって、研究を、リサーチクエスチョンに答える本質的な課題へと絞り込むことが出来る。』(p65)
 
『良いデザインは明確な焦点をもっていて、明確なリサーチクエスチョンをめぐって作られる。』(p65)
 
リサーチクエスチョンがしっかりすれば、研究がぶれても、また立ち戻れるってことなんだろう。
大学院に入ってから何度も指導教官から教わったことと同じ。

韓国より帰国

先日、無事に「韓国政府 日本教職員招聘プログラム」を終え、日本に帰国しました。
現地での学校や委員会訪問、授業、ホームビジット、そして国内外の仲間との繋がり・・・。あげればきりがありませんが、全てが貴重な経験となりました。

お世話になったACCU(公益財団ユネスコアジア文化センター)の皆様をはじめとして、本プログラムに関わった多くの皆様、そして快く送り出してくれた所属校、大学院関係者の皆様に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。

親不知で日々の有難みを知る

〈近々私に会う方へ。〉
歯医者で親不知を抜こうと試みましたが、抜くことが出来ませんでした。左の頬が少々腫れております。明日に腫れが収まることを願いますが、そうもいかないそうです。そんで下記のお願い。

①顔を見ても笑ったり、ネタにしたりするのはやめましょう。(気もちはわかりますが、つられて私も笑うと痛みが走ります。)
②理由を尋ねるのはやめましょう。(語りたいのですが、痛みで口が開かない、話しても言語不明瞭です。)
③許可なく頬を触るのはやめましょう。(もとより許可などしません。)
④毎日の食事に感謝しましょう。

一番伝えたいのは④です。食事を3度も食べることが出来る日常のありがたさを痛感しました。何気ない日々のありがたさを学ぶこともESDでございます。

〈研修日誌を書くと言こと〉

 

 昨年度から研修日誌を大学院で書いていますが、本年度は研修に行く機会が前年度の倍あり、書く回数も多いため、パソコンに向かって省察を試みている日々なのであります。
 単なる記録、感想文として機械的に書けば簡単に済むのですが、(そうして済ませてきたことも数多くあるのですが、)せっかくの学びの機会なのと、大学院での学びを少しばかりでも深めたことによって、省察をすることの意義も感じているので、自身の内面に向き合って書くことを繰り返してきました。

 どんなことでも数を繰り返すと、成長していくのと同じように、この書くことによる省察も繰り返して行ってきたことにより、日誌に書く内容にも変化が表れてきたことを自分でも感じることが多くなりました。

 自分が授業や学校の風景を見て、どんな場面に違和感をもったり、どんな場面に関心をもったりするのかが良く分かります。また授業や学校経営そのもについても見る視点が、昨年度より明らかに変わってきたことが、日誌を読み返すと明らかになります。

 しかしながら、この日誌と言うものは、研修校への提出と大学院への提出が義務付けられているため、どこかに「読まれること」を意識して書いている自分がいるのも事実です。


 その意味で、本当に自分の内面に対して忠実に省察が行われた記録かと言うと、「なーんちゃってー(^▽^)」と舌を出し、ありのままの自分を制御する自分がいるのも事実です。どうしたって、学校と言う複雑な組織で生きる一人の小学校教員の本音やギリギリの感情の全てまでを記すことはできません。

 そうです。「ありのままのー♪(*^-^*)」なんて簡単に教え子たちは歌っていましたが、中年のオジサンは、本音と建て前を使い分けて生きるのです。いや、そう生きなければならぬのです。そして何より大切なことは、提出が義務付けられていなければ、怠惰な中年オジサンは、そもそも省察を日誌で記す行為などできません。
 パソコンに向かいながら、私は本音と建て前、義務と権利の世界を複雑に飛び回りながら、生きていることを改めて気づかされました。ありがとう。

〈去りし友に会いに行く①〉

 

鬼退治に行くはずが、青鬼に連れられて鬼ヶ島から逃れた仲間を確保しに行くことに。そんで今日は小平へ。要するに大学院で共に学んだ現職の仲間たちが、現場に帰り何を実践し、何を感じているかを探る旅でした。

 

いやー楽しかった。本当に学べるフィールドワークでした。

何がって、今日確保しに行った先生は、昨年度の学びを現場で生かして自分のものにしてる。そして、本人もそれを実感していたからです。

 

もちろん課題や限界も感じつつも、クラスにも学校にも、そして地域にも変革の波を起こしていました。
それが授業実践でも放課後の本音インタビューからも、バシバシ伝わってきました。
確実に彼の授業観、児童観、学校観は変容していました。そして、今までの経験と昨年度の学び、そして現在の実践についてメタ認知でとらえることができていたのです。

 

「うーん、わかるわかる。」「へぇー」「まじで!?それで、それでそれで?」ってこっちが、オープンクエスチョン意識せずとも出まくるインタビューをさせてくれて感謝、感謝。

共に同じ時間を過ごしたからこそ、わかり合える対話、新たな気づきをくれる対話でした。もう一度、インタビューを聞き直して、振り返りを起こしたいと思うほど、印象的な言葉が多かったです。

 

そんな中でも、強く感じたのは

「大学院に入る前に、こだわっていたことは何だったのだろうと思う。現場に戻ってこだわりを捨てたら、大したことはなかったな。」(趣旨)

 

かな。
この言葉は今の自分に新たな啓示をくれました。はい、読んでいる人に意味はわからなくても良いのです。自分にわかれば。

 

もちろん、これから確保しに行く仲間たちには、大学院で学んだことを生かせずに苦しんでいる人もいるでしょう。むしろ学んできたことが、即実践に繋がっている仲間は、少ないかもしれません。
しかしながら、そうした仲間たちにも会って何を感じ、何が障害となっているか、本音を聞くことが、この旅の目的にもなります。

 

現場に帰って、子供たちと触れ合い、生き生きと語る彼の姿は、昨年度まで私たちが知っている彼とは違う一面でした。残念ながら、彼は鬼ヶ島に戻る気はなく、現在のフィールドで、まだやりたいことが沢山あるようでした。確保ならず!さて、次の仲間探しの旅へと進むことにします。