徒然なるままに。

徒然なるままに日々のこと。なんちゃって教員の備忘録。

何が「つながり」で、何が「変容」なのか。~働き方改革に取り組んでいて~

 

働き方改革」とか「業務改善」は、学校現場にどのような「つながり」や「変容」をうむのでしょうか。

昨日は、ある企業で研究職を勤めてる方に、職場の業務改善について教務主任と共に相談させて頂きました。丁寧にコンサルして頂き得難い知見を多く頂きました。何より、今の僕らの方向性は正しいことを再認識できたことは心強かったです。こうしたコンサルは数年を見据えて行って頂く予定です。

しかしながら、こうした業務改善や働き方改革の取り組みも一朝一夕に大きな効果を生む魔法ではありません。

ただでさえ忙しい毎日。新しい風を吹かすことは、逆に業務を増やしたり、余計なハレーションを起こす場合もあるでしょう。では、そんなことをわざわざやる必要はないのでしょうか。

考えてみれば、私たちは
「このクラスを作るのは自分達だ」
と子供たちが主体的に動く姿を理想とします。学級作りに主体的に取り組み始めた子供たちは、全身から楽しい様子が伝わり、どんどん成長していく姿を見せてくれます。そんな姿を感じた教員は少なくないはずです。

ならば「この職場を作るのは自分達だ」と主体的に動く大人の姿も理想の姿といえます。自分達の業務や働き方をワイワイ言って変化を起こすことは、本来楽しいことのはず。

子供たちに、主体性を求めながら自らは諦めてしまう教員の姿が学校現場にあるとすれば、その要因はなんなのでしょうか。課題と感じていることを諦めて放ってしまい日常に埋没することは、むしろさまざまな危険を増大すことも考えられます。

私は「よい職場作りが、子供たちの幸福につながる」という訴えをしている身です。自ら動いて、みんなに実感してもらう取り組みを地道に続けるしかありません。

ESDで良く語られる「つながり」や「変容」。
職場で進めてる業務改善や働き方改革の流れが、どう皆の「つながり」をうみ、「変容」をうむのか。そして、それが子供たちにどう帰り、どのような幸せを生むのか。
そもそも、何が「つながり」であり「変容」と言えるのか、とことん考え、できることから実行していきたいと思います。

明日はS先生を御迎えして職場のみんなで研修会です。「変容」へと「つながる」一歩になりますように

学校は変わる、変わり続ける

クラスに変化を感じる瞬間があように、学校に変化を感じる瞬間というものがあります。今日は、そんな瞬間を感じることが出来ました。
 夏休み明けが間近に迫った今日、同僚と研修を設けました。参加は自由。子どもも大人も憂鬱になる夏休み明け(笑)。少しでも前向きにスタートできるよう「授業づくり・学級づくりを一度立ち止まって見直しましょう」というようなコンセプトです。

 内容は大きく2本立て。まず、市の教育課程の発表を先日務めたばかりの同僚が、自らの実践をもとに授業づくりについて語ってくれました。
私からは、「よい先生とは何ですか」「よい学級とは何ですか」との問いをもとに、ワークや「しるらないカード」を使いリフレクションと対話をすすめました。

※主に参照したのは
岩瀬直樹・寺中祥吾著「学級づくり」『せんせいのつくり方 “これでいいのかな"と考えはじめた“わたし"へ 』 (2014)です。

 二人とも、偶然にも自らの教師としてのライフヒストリーの紹介をベースにした内容でした。今振り返れば、『学校は変わる。そのためには、まず自分を変えていく』。そんな通底するメッセージが流れていたような気が主催者ながらしています。

「参加者はせいぜい2,3人だよね」なんて話していた企画は、若手を中心に計12人の参加者が集い私達も驚き。(え?少ない?充分です!)
参観者の表情、フィードバックを見ても、会の目的が達成できたのはわかります。夏休みまで所属校も様々なことがありましたが、確実に変わっていける。否、変わっていることを実感しました。そんな手ごたえを同僚と語り合った夜の打ち上げは最高に決まってます。
 今後も校内で、こんなスタイルで学び合える研修をゆるやかに続けていくつもりです。変容を続けるために。

恩師来校×ホワイトボード×ESD

 授業研を終えました。ある方の御配慮によって、まさかの恩師来校。
現場に戻り、学校が変わり、私自身がどう変わったのか。3カ月間の子どもたちと私の姿を隠さずありのままに見て頂きました。

 教科は総合学習。近隣の公園の桜の伐採と今後の開発についてテーマにしています。その公園は桜の名所として地域はもちろん、多くの方に愛されてきた公園ですが、桜が老齢であることを理由に半分近くが伐採をされる予定です(※伐採後、新たな苗が植えられる予定です。)

当初は「切るの反対!」「仕方ないじゃんよ!」なんて単純な議論を重ねていた子どもたちも、地域の方、土木事務所の方、コミュニティハウスの方、学校の先生。それぞれとの出会いを重ねて願いや思いを知り、思考を深めていきました。
 そんな思考の軌跡は振り返りのノートと桜の付箋に記し残されています。振り返りの軌跡を残していくことの大切さは、恩師より何度も学んできました。

話し合いのツールは、「子どもホワイトボード・ミーティング」で。開発者のちょんせいこ先生と岩瀬直樹先生からは前任校と大学院時代に直接教わっています。
 

単に話し合いの方法論としてでなく、今の子どもたちの関係性をあたためること、その関係性を結び、つなぎ直すことが必要であると感じて選び、実践をしてきました。その考えは正しかったと思っています。9月からも続けます。
 オープンクエスチョンを使ったミーティングも回を重ねていくと、ある時期からグッとテンポだけでなく、質や場の雰囲気が変化したことを実感しました。課題はもちろんありますが、今では日常の会話の中でも、オープンクエスチョンを使った会話が見受けられ微笑ましいです。小学校3年生が「ここまでやれるんだぞ」って見せてくれています。
 「主体的で対話的で深い学び」といっても、当人どうしの関係性が深まっていなければ対話も深まらないのではないでしょうか。子どもなら、なおさらです。であるならば、相手を信頼して対話ができる地盤を整えること、子ども自身が自分たちでつながる小さな成功体験を積み重ねてあげることが、私としての役目なのだと考えました。そんなあり方を模索し提示することが、今の私のESDの授業です。

 ふりかえれば、あれもこれも全て用意をし、一人ひとりの考えも全てメモをし、板書計画も細部まで用意して授業研に臨んでいた自分。ひどいときは、指導案(ある意味、指導を受けた案)通りになるよう、誰のためかもわからないような授業研をしたこともありました。結局は自分が可愛かっただけなのです。そんな自分から、子どもたちに委ねる心地よさ、本当に一緒につくる楽しさを、ようやく味わえるところが見えてきたような気がします。
いつも応援をくださる皆様。私。どうにか夏休みを迎えられそうです。ありがとうございます。

大きな大きな山に向かいつつ・・・。

    先日、所属する大学院の課題研究の成果発表会を無事に終えることができた。2年に渡る大学院の生活で多大な時間を本研究に費やしてきただけに、やり終えたという充実感を得る一方、もっとこうすればよかった、ああすればよかったと色々と悔しい気持ちも存在しているのが正直なところである。この課題研究で自身が学んだこととはいったい何だったのか。本稿の機会に振り返ることとしたい。


    私の研究の目的は2つある。難しくなるが、一つは「ESDを実践する学校において、教職員のESDの認識の変容過程を明らかにすること」であり、もう一つは「その学校に対して教職員は学校組織の特性を、どのように認識しているかを明らかにすること」であった。分析手法として木下(2007)によって開発された修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチ(Modified Grounded Theory Approach 以下、M-GTA)を用いたことにより、前者の目的はモデル図として明らかにし、後者の目的はモデル図の中の概念として明らかにすることで本研究の目的は達成できたと考えている(詳細は課題研究成果報告書を参照)。

     大学院で求められる学術研究は学校現場で行ってきた授業研究会とは違う。特に私のテーマは教職員の内面的な意味付けを探るものであるため多くのインタビューを必要とし、そのプロトコルの作成や解釈に、ほとんどの時間を費やすことになった。何より研究初心者ということもあり随分と遠回りしてしまったという実感もある。結果としてボリュームが大きくなり過ぎてしまい二つの論文としてまとめることとなったが、時間を費やして学んできたにもかかわらず、報告書に成果として書けることは僅かなことであった。そして、その導いた結論というものは、多くの現場の教師にとって価値があるものではないとでさえ考えている。

    西城(2008:81)は研究の意義について「(中略)問題意識を共有してくれている人は『ああ、この研究は意味があるね』ってわかってくれる。でも、何も知らない人にとっては『え、そんなの当たり前じゃない』ってなることも少なくない」と述べている。研究の位置づけや意義というものは、先行研究や方法論を詳しく理解している人、また研究対象に関心がある人には伝わりやすい反面、そうでない人にはどうしても伝わりにくい面があることを感じてきた。ある研究者の方が「学術論文というのは、学術好きの同人誌みたいのもの」と言っていた。言い得て妙だと思う。

    何より私自身が、現場にいたときに学術論文といったものを好んで読むことはなかったし、たまに紹介などされて手に取る機会があっても価値を見出せなかったし、ほとんど理解が出来なかった。自己の体験に過ぎないが、それだけ研究で得られた理論というものが、現場の一教師に伝わるには難しい面があると感じてしまう。もちろん、自身の能力不足という点は大いに認めつつも。
   

   では、私がこの研究で学んできたことは何ももたらしてないのであろうか。いや、そうではないであろう。パソコンと書物を片手に「あーでもない、こーでもない」と煩悶し右往左往した日々、研究仲間や大学の先生方と議論した日々、そうして費やしてきた多大な時間こそが、本研究に対する深い理解だけでなく自身の「教育とは何か」との深い理解につながったのだと考えている。研究といっても、ただ単にテーマを分析手法に従い手順を踏んで解決するものではない。なぜその手法を選んだのか、なぜ、そのテーマが問題なのか、そもそも教育や人、現象をどうとらえているのか、といった認識論そのものに対する自身の理解や限界が問われることになる。大げさかもしれないが、本研究を通し歩んだ日々は、自身の教育哲学的基盤といったものを少しずつ構築する日々であったのだと今振り返って思う。

    18の時だったと思う。恩師が古典をひいて「山に近づけば近づくほどその高みが分かると共に自分の微弱さを知る。それは学問も同じようなものである」という趣旨の言葉を語ってくれた。僅か2年ばかりの限られた研鑽ではあったが、恩師の言葉の如く学べば学ぶほど、積み上げられた膨大な知に驚かされ、自身の浅学に気づかされる日々でもあった。
    だが、研究を歩む日々は苦しいだけの道のりであったわけではない。インタビューを通して多くの方々に教職員としての歩みを伺ったのだが、私にとって、この時間が何よりの至福の時間であったのである。今まで知りえなかったエピソードに出会えることで相手をより深く理解することが出来たし、相手が過去を振り返る中で、自己の体験に深い意味付けを見出す瞬間が生まれる場面も生まれた。そうした時間を共有できることはインタビューアーとして、この上ない喜びであった。そんな経験は、指導教官と共に質的研究について中学生に授業を実施するという貴重な機会ももたらしてくれた。
    M-GTAを開発した木下は「M-GTAによって得られた理論は、その結果が現場で活用され、相互的な交流が生まれることが重要である」と述べている(木下・萱間、2005:366)。自身の研究の成果を研究対象となったA小学校をはじめ幾つかで発表させていただいた。先ほど述べたように、案の定、私の報告に対して意義を見いだせず批判的なコメントとをくれる人や眠たそうに聞いている人たちがいた一方で、モデル図を通して自身の認識の歩みを振り返ったり、自校とA小学校との比較をしたりするものが予想より多くあり驚かされた。また、ある方たちは、報告の終了後にESDの実践校の可能性について議論を交わしていた。自身の拙い研究が何かしら現場に伝わっている実感が湧き、努力が報われたように感じて胸が熱くなった瞬間である。それは、大学院で何度となく聞いてきた「理論と実践の往還」という言葉を自分なりに体現できた瞬間でもあったように思えた。 
    忘れてならないのは、頂いた批判的なコメントを研究を深める貴重な意見であり、価値を見出せない人たちがいたのも事実であることを受け止めることであるとも思う。

    現場に立つ教師だからこそ、現場に還元できるより良い研究の在り方、「理論と実践の往還」の在り方を求めていきたい。これで研究の道を終わりにすることは2年間の努力を無に帰するようにさえ今は感じている。4月から迎える新たな場で、目の前にいる子どもたち、保護者、同僚に対して、どのような「理論と実践の往還」が出来るのであろうか。また経験則だけで突き進む教師に戻るのであろうか、それとも何でも理屈をこねる教師になるのだろうか。我がことながら見ものである。

    何やら難しいことを考えすぎる癖がついた。心と体を少しばかり休めて、また新たな気持ちで楽しみながら山に向かって歩くこととしよう。

     最後に、私の2単位のために、ご尽力頂いた指導教官をはじめ大学の諸先生方、学生の皆さん、そして、研究対象校であり所属校でもあるA小学校の皆様に心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

 

 ※この記事は大学院での「課題研究の振り返り」を編集したものです。

 

引用文献
木下康仁(2007)『 ライブ講義M −GTA 実践的質的研究法 修正版グラウンデッド・        セオリー・アプローチのすべて』弘文堂。
西條剛央(2008)『ライブ講義・質的研究とは何か SCQRMアドバンス編‐研究発表        から論文執筆、評価、新次元の研究法まで‐』新曜社
木下康仁・萱間真美(2005)「修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチ(M-        GTA)について聴く―何を志向した方法なのか,具体的な手順はどのようなものか」『看護研究』第38巻7号、pp. 349-367

学びを次世代へ

今日は附属国際中等教育学校で、自身が専門で学び実践してきた「ライフヒストリー・インタビュー」をもとにインタビューと研究についての授業をしました。まさかの指導教官とのコラボ授業です。
国際中等の子供たちは、カリキュラムで中学一年から研究の一歩を学んでいきます。その入り口となる位置付けの授業でした。
100人を越える中学一年に飛び込み授業というのは、かつてないチャレンジでしたが、研究の集大成であるこの時期に、自身の学びを次世代に伝えられること、そしてお世話になった指導教官と授業を出来ることはこの上ない喜びでした。
子供たちの振り返りには、私のねらいを遥かに越えたものも・・・。授業後の指導教官から「授業をしてるとき、別人のように生き生きしてたよ」との言葉が、何だかいつまでも心に響いた一日でした笑。お世話になった皆様ありがとうございました。

この4カ月ほどの取り組み

 約3カ月ぶりのブログとなりました。

  この3、4ヶ月ほど、取り組んできたことに論文の執筆があります。この2年間取り組んでいるメインの論文とは別に2本の論文を仕上げることにチャレンジしてきました。メインの研究論文を差し置いて別の論文を書くという、相変わらず無謀な後先考えずにやってしまう自分が愛おしくて仕方ない今日この頃です。

   どちらも取り組む機会を頂きチャレンジしたのですが、別の理由として『普通は2年間で一本仕上げる論文を3つも書いていれば、私の大学院派遣に対する悪友たちからの「税金の無駄」との説得力ある指摘に反論できるのではないか』との浅はか過ぎる仮説の存在がありました。案の定、自分の力のなさを思い知った3,4カ月でもありました。

   しかしながら、1年目に比べて授業の負担が少ない2年目だからこそ、出来たチャレンジであったと思います。もちろん、これだけに時間を割いてきたわけではありません。あれやこれや公私含めてありましたので、大変に忙しい日々ではあったのですが、めいっぱい学べた4カ月でもありました。後悔はありません。まだまだ修正は必要なのですが、先日、どちらも第一稿の終わりが見えてきてほっとしているところです。

 この間、このブログも放置状態でありましたが、少しずつ、また綴っていきたいと思います。日々書くという作業を通して、自分の記録を残すことはもちろん、文章を書く作業を通して言葉で考える習慣をつけていきたいと思います。もちろん、この4カ月も論文を通して書く作業はしてきたのですが、論文とブログでは文体も目的も異なりますし、どう考えてもブログの方が気が楽に書けます。色々書き溜めたネタもありますので、少しずつ出していけたらと思います。数少ないマニアックな読者の皆様。今後ともよろしくお願いします。

 

それでは次回のブログは3か月後とします。ごきげんよう

ウヴェ・フリック , 鈴木 聡志 訳『質的研究のデザイン (SAGE質的研究キット) 』,2015. 第4章

第4章について
ウヴェ・フリック , 鈴木 聡志 訳『質的研究のデザイン (SAGE質的研究キット) 』,2015. 第4章
「質的研究のデザイン」について
 
〇研究デザインとはなんだろう?
 
研究デザインとは研究の焦点を減らすことらしい。あれこれややこしくしないで焦点を定めるってことなのかな。
 
 
この章はRaginのこんな言葉の紹介から始まっている。
 
研究デザインとは、研究者が提起した問いに答えることを可能にする、証拠の収集と分析のための計画である。1つの研究についてのデザインは、 データ収集の細部からデータ分析の技法の選択まで、研究のほぼすべての側 面に及ぶ。」 (Ragin, 1994, p.191)
 
 
質的研究が良く批判される曖昧さ。
マイルズ とヒューバーマンわざわざ、
 
「あなたが聞いたかもしれないこととは反対に、 質的研究のデザインは存在するのである」(Miles & Huberman, 1994, p.16)
 
と 指摘している。
 
質的研究の研究デザインのとらえについて、様々な人たちの定義やモデルを紹介しているんだけど、ある意味、どれも量的研究との違いをあえて際立たせるために定義しているようにも感じられた。
 
 
〇デザインの構成要素とトライアンギュレーション
 
研究デザインの構成要素として、サンプリングや意図された比較、意図された一般化、読者と執筆などがあげられ検討されているのが面白かった。研究デザインというものを単なる計画書のようなものでとらえるのではなく、研究全体に与える要素として述べていたからである。
 
大学院で何度も出てきた言葉「トライアンギュレ―ション」にも触れられており、一つの方法論的アプローチだけでなく、研究視覚を洗練、熟考することで研究デザインをより確かなものへと変容させられることを述べている。
 
自分の大学院では定期的にグループと呼ばれる単位で、各自の研究を検討し合っている。量的研究の人もいるし質的研究の人もいる。こうした取り組みは、トライアンギュレ―ションと言っていい。
また、自分が関心のある質的研究と量的研究の混合アプローチもトライアンギュレーションとしての考察である。
 
 
〇2つの研究事例
 
この章で紹介されていた2つの研究事例は、述べられてきた解説の実際を事例を通して理解することができ有益であった。事例を通して説明されていることで、研究当初にあった包括的で複雑な関心が焦点が定まった研究へと進化していくかが理解しやすい。
 また有名な専門家たちでさえ、予定にはない事態に制約を余儀なくされながら、すすめている様子が感じられ。(特に質的研究はその傾向が強いように感じる。)親近感がもてた(笑)。研究そのものに七転八倒して取り組んでいるのは私だけじゃないさ。
 
 
〇立ち戻る場所。 リサーチクエスチョン
 
要するに良いデザインは明確な焦点をもっていて、明確なリサーチクエスチョンがあることだという。
 
『研究デザインとリサーチクエスチョンによって、研究を、リサーチクエスチョンに答える本質的な課題へと絞り込むことが出来る。』(p65)
 
『良いデザインは明確な焦点をもっていて、明確なリサーチクエスチョンをめぐって作られる。』(p65)
 
リサーチクエスチョンがしっかりすれば、研究がぶれても、また立ち戻れるってことなんだろう。
大学院に入ってから何度も指導教官から教わったことと同じ。