徒然なるままに。

徒然なるままに日々のこと。なんちゃって教員の備忘録。

大きな大きな山に向かいつつ・・・。

    先日、所属する大学院の課題研究の成果発表会を無事に終えることができた。2年に渡る大学院の生活で多大な時間を本研究に費やしてきただけに、やり終えたという充実感を得る一方、もっとこうすればよかった、ああすればよかったと色々と悔しい気持ちも存在しているのが正直なところである。この課題研究で自身が学んだこととはいったい何だったのか。本稿の機会に振り返ることとしたい。


    私の研究の目的は2つある。難しくなるが、一つは「ESDを実践する学校において、教職員のESDの認識の変容過程を明らかにすること」であり、もう一つは「その学校に対して教職員は学校組織の特性を、どのように認識しているかを明らかにすること」であった。分析手法として木下(2007)によって開発された修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチ(Modified Grounded Theory Approach 以下、M-GTA)を用いたことにより、前者の目的はモデル図として明らかにし、後者の目的はモデル図の中の概念として明らかにすることで本研究の目的は達成できたと考えている(詳細は課題研究成果報告書を参照)。

     大学院で求められる学術研究は学校現場で行ってきた授業研究会とは違う。特に私のテーマは教職員の内面的な意味付けを探るものであるため多くのインタビューを必要とし、そのプロトコルの作成や解釈に、ほとんどの時間を費やすことになった。何より研究初心者ということもあり随分と遠回りしてしまったという実感もある。結果としてボリュームが大きくなり過ぎてしまい二つの論文としてまとめることとなったが、時間を費やして学んできたにもかかわらず、報告書に成果として書けることは僅かなことであった。そして、その導いた結論というものは、多くの現場の教師にとって価値があるものではないとでさえ考えている。

    西城(2008:81)は研究の意義について「(中略)問題意識を共有してくれている人は『ああ、この研究は意味があるね』ってわかってくれる。でも、何も知らない人にとっては『え、そんなの当たり前じゃない』ってなることも少なくない」と述べている。研究の位置づけや意義というものは、先行研究や方法論を詳しく理解している人、また研究対象に関心がある人には伝わりやすい反面、そうでない人にはどうしても伝わりにくい面があることを感じてきた。ある研究者の方が「学術論文というのは、学術好きの同人誌みたいのもの」と言っていた。言い得て妙だと思う。

    何より私自身が、現場にいたときに学術論文といったものを好んで読むことはなかったし、たまに紹介などされて手に取る機会があっても価値を見出せなかったし、ほとんど理解が出来なかった。自己の体験に過ぎないが、それだけ研究で得られた理論というものが、現場の一教師に伝わるには難しい面があると感じてしまう。もちろん、自身の能力不足という点は大いに認めつつも。
   

   では、私がこの研究で学んできたことは何ももたらしてないのであろうか。いや、そうではないであろう。パソコンと書物を片手に「あーでもない、こーでもない」と煩悶し右往左往した日々、研究仲間や大学の先生方と議論した日々、そうして費やしてきた多大な時間こそが、本研究に対する深い理解だけでなく自身の「教育とは何か」との深い理解につながったのだと考えている。研究といっても、ただ単にテーマを分析手法に従い手順を踏んで解決するものではない。なぜその手法を選んだのか、なぜ、そのテーマが問題なのか、そもそも教育や人、現象をどうとらえているのか、といった認識論そのものに対する自身の理解や限界が問われることになる。大げさかもしれないが、本研究を通し歩んだ日々は、自身の教育哲学的基盤といったものを少しずつ構築する日々であったのだと今振り返って思う。

    18の時だったと思う。恩師が古典をひいて「山に近づけば近づくほどその高みが分かると共に自分の微弱さを知る。それは学問も同じようなものである」という趣旨の言葉を語ってくれた。僅か2年ばかりの限られた研鑽ではあったが、恩師の言葉の如く学べば学ぶほど、積み上げられた膨大な知に驚かされ、自身の浅学に気づかされる日々でもあった。
    だが、研究を歩む日々は苦しいだけの道のりであったわけではない。インタビューを通して多くの方々に教職員としての歩みを伺ったのだが、私にとって、この時間が何よりの至福の時間であったのである。今まで知りえなかったエピソードに出会えることで相手をより深く理解することが出来たし、相手が過去を振り返る中で、自己の体験に深い意味付けを見出す瞬間が生まれる場面も生まれた。そうした時間を共有できることはインタビューアーとして、この上ない喜びであった。そんな経験は、指導教官と共に質的研究について中学生に授業を実施するという貴重な機会ももたらしてくれた。
    M-GTAを開発した木下は「M-GTAによって得られた理論は、その結果が現場で活用され、相互的な交流が生まれることが重要である」と述べている(木下・萱間、2005:366)。自身の研究の成果を研究対象となったA小学校をはじめ幾つかで発表させていただいた。先ほど述べたように、案の定、私の報告に対して意義を見いだせず批判的なコメントとをくれる人や眠たそうに聞いている人たちがいた一方で、モデル図を通して自身の認識の歩みを振り返ったり、自校とA小学校との比較をしたりするものが予想より多くあり驚かされた。また、ある方たちは、報告の終了後にESDの実践校の可能性について議論を交わしていた。自身の拙い研究が何かしら現場に伝わっている実感が湧き、努力が報われたように感じて胸が熱くなった瞬間である。それは、大学院で何度となく聞いてきた「理論と実践の往還」という言葉を自分なりに体現できた瞬間でもあったように思えた。 
    忘れてならないのは、頂いた批判的なコメントを研究を深める貴重な意見であり、価値を見出せない人たちがいたのも事実であることを受け止めることであるとも思う。

    現場に立つ教師だからこそ、現場に還元できるより良い研究の在り方、「理論と実践の往還」の在り方を求めていきたい。これで研究の道を終わりにすることは2年間の努力を無に帰するようにさえ今は感じている。4月から迎える新たな場で、目の前にいる子どもたち、保護者、同僚に対して、どのような「理論と実践の往還」が出来るのであろうか。また経験則だけで突き進む教師に戻るのであろうか、それとも何でも理屈をこねる教師になるのだろうか。我がことながら見ものである。

    何やら難しいことを考えすぎる癖がついた。心と体を少しばかり休めて、また新たな気持ちで楽しみながら山に向かって歩くこととしよう。

     最後に、私の2単位のために、ご尽力頂いた指導教官をはじめ大学の諸先生方、学生の皆さん、そして、研究対象校であり所属校でもあるA小学校の皆様に心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

 

 ※この記事は大学院での「課題研究の振り返り」を編集したものです。

 

引用文献
木下康仁(2007)『 ライブ講義M −GTA 実践的質的研究法 修正版グラウンデッド・        セオリー・アプローチのすべて』弘文堂。
西條剛央(2008)『ライブ講義・質的研究とは何か SCQRMアドバンス編‐研究発表        から論文執筆、評価、新次元の研究法まで‐』新曜社
木下康仁・萱間真美(2005)「修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチ(M-        GTA)について聴く―何を志向した方法なのか,具体的な手順はどのようなものか」『看護研究』第38巻7号、pp. 349-367