徒然なるままに。

徒然なるままに日々のこと。なんちゃって教員の備忘録。

僕の小学校時代① ~BとCの覇権戦争~

  自身が小学校の教員ということもあり、自らの小学生時代の原風景みたいなものを、思いつくまま幾度かに分けて綴ります。記念すべき第一回は、私の小学生時代の学力について。

 

 今まで担任をしてきた教え子たちや同僚にも伝えていますが、小学校時代の私はとても勉強が苦手でした。国語や算数はもちろんのこと、体育や音楽などの技能教科も全くセンスがありませんでした。

  算数はチンプンカンプンな記号をひたすら眺めるだけ、図工は、唯一下書きだけが得意なデッサンも、絵の具を塗った瞬間にピカソもビックリの作品の完成、音楽は音痴な歌を歌い周りから苦笑を買う…。はい。皆様ご想像の通り、典型的なデキナイ子というレッテルを張られてしまった小学生です。そんな私とは逆に、姉は何でもできるタイプの女子。比べられることは、とても嫌でした。とにかく学校の授業というもののイメージに対して、訳が分からない&能力が追い付かない取組みを、ひたすら我慢するという印象が強く根付いたと思います。

 

   教師になって気づいたのですが、私の小学校時代の成績は、なかなか、そう簡単に取れるものではありません。成績表記はABCの三段階だったのですが、毎年の評価の欄はBとCのオンパレード。互いに領地をめぐり激しく争っていました。結果として、年間を通すとCが勝利を挙げることになります。時には、Cがこれでもかと言わんばかりに領土を拡張した学年も数度ありました。(何とかBもそれなりにがんばり、Cの全面勝利に至ることはなかったです。) 

 

  そんな自分が小学校の教師になってしまったものですら、子どもたちには

「いいか、先生が小学生の時ほど勉強が出来てない子は、このクラスにいない! そんな先生でも大人になって、こうして働いてご飯食べられてるんだ。だから大丈夫!成績が悪くても落ち込むな!」

と何とも説得力のない論を熱く語ってしまっている教師な訳です。

 

  しかしながら、何とか社会人に慣れた現在の自分も、新しい物事を学ぶとことに対して苦手な意識が付きまといます。事実、人より物覚えが悪いので、勉強でも運動でも音楽でもマスターしている人を見ると、とてもカッコよく見えて、それだけで尊敬してしまいます。小学生時代のある担任の先生と今でも会う機会があるのですが、私はボーっとしていて、活発に活動する子をニコニコしながら見ているような大人しいイメージだったそうです。今でも、その面影があるそうです。

 

 ここまで書くと、学校の生活にとても苦しんで過ごした子に思われる方もいるかもしれませんが、実際は真逆で学校は大好きでした。おかげさまで、友達にはずっと恵まれ、勉強は苦手ながらも楽しく過ごすことが出来たと思います。ですから、私の学校に対するイメージは、とても明るいです。

背景として、貧しいながらも温かい家庭に育ったこと、担任をしてくれた先生方も優しかったことが、友達や学校そのものに対して繋がりが持てやすく過ごせる要因だったのではないかと考えます。やはり、基盤となる見守ってくれる人の存在は、とても大切なのだなぁ、と感じます。授業が苦手だらけでも、こうして学校そのものに対しては明るいイメージをもって育った大人が、世の中にいるのですから。

 次回は、そんな苦手なものだらけの自分が勉強をそれなりに面白いと思ったきっかけや、友達のことでも書こうとかと思います。

研究メモ② 文献より2  質的研究と量的研究について

ウヴェ・フリック , 鈴木 聡志 訳『質的研究のデザイン (SAGE質的研究キット) 』,2015.

の第一章の続き。

 

質的研究か量的研究かってよく議論されるが、どっちが正しいとか、スゴいってことじゃないと思う。どっちも大事だし、研究の考え方(認識論ていうの?)や研究対象に応じて使い分ければ良いのではないか、もしくは補完しあえないのかと。

 

そんな疑問から抱井 尚子,『混合研究法入門: 質と量による統合のアート』 ,2015.なんて本も昨年度読んだが、今読み進めている本にも、分かりやすく両者の研究について述べてあった。

そんで第一章の続きで関心をもったところから。

 

 「質的研究と量的研究の関係に関しても、さまざまな立場が見出せる。まず、この分割された両サイドにおいて、他のアプローチの明確な拒否という立場がある。」(p.9)

 

 質的研究の特徴をよりわかりやすくするために量的研究を対比させるのが基本みたい。んでもって質的研究の存在自体を無視、拒否する量的研究者の方々多くいるとのこと・・・( ;∀;)。

  だけど評価研究のような領域では、折衷主義が特徴としてある!それで質的研究と量的研究の組み合わせについてハマーズレイ(Hammersley,1996.)やブライマン(Bryman,1992)等を紹介されてる。特にブライマンの質的研究と量的研究のの統合する11のやり方は読んでいて面白かった。

  統合することによって、お互いに補完することもあれば、その逆もあり、また全体像をあたえたり、片方の知見を解釈の促進する場合もある。また研究過程の異なる段階で使うなど。統合するといってもいろんな方法があることが学べた。

 

 著者が述べてたのは、二つの研究を結合させることが、将来の社会科学研究の方向性であるとか、質的研究の独自性に見切りをつけるようなことではないということ。

 そして、質的研究は一つの理論プログラムに基づいているのではなく、いくつかの理論的背景に頼っていること(大きく分けて実証主義構成主義)が、とりあえず分かった。

 二つの研究方法を統合させるにしても、どうそれを統合させるか、もしくは補ったり、解釈させるのか、まず自分自身がどういう認識や考え方で研究対象や研究分野に向かい合うかが前提になるのだと思った次第。

 

 そしてここまで読んで、質的研究が対象との関わりをもつことや、研究対象者に新たな洞察をもたらすこと。そして、その実践によって世界の変容をもたらす(デカい 笑!)ってところが、現場教員ならではの強みとして生かせるのではないかと勝手に思った次第。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

研究メモ② 文献より1 質的研究を探る旅へ。

研究メモ② 文献より1

『SAGE質的研究キット1 質的研究のデザイン』 ウヴェ・フリック監修 第一章より

 

 大学院で質的研究という言葉を沢山耳にしてきた。そして、自身の研究も質的研究にあたる。(多分。)そんでもって、じゃあ質的研究とは何か。interviewしながら共にワイワイすることか、フィールドに入り込んで思うままに記述することか、ナラティブな感じなのか、ってナラティブって何かなのさ、ようするに量的研究じゃなけりゃ質的研究になんのか。

 などと授業受けたり、友と話したりする度に突っ込みを入れたくなる日々を過ごし、結局自分でちゃんと本読んで(読んだつもり、分かったつもりにならずに)理解すること、自分なりに定義することが大事だろ、と突っ込み返しをしたところ、ある先生より上記の文献を薦められて手に取りました。

 以下、まずは苦労して読んだ第一章のメモ。

※ 以下は筆者の極めて個人的な解釈の表現やメモ書きでしかない。

 

〇第一章前半

 

デンジンとリンカンさんが、当面こうなんでいこうようという定義をしている。

「質的研究ってさ。研究する人もその状況に入れちゃうんだよ。

 フィールドノートとったり、いんたびゅーしたり、会話したり、写真撮ったり、記録撮ったりするじゃない。そうすると世界が見えてくるよね。さらに、そのことで、その研究対象に参加してる人がどんな意味を、そこに持ってるか理解したり解釈したりしようとすること、それを意味するんだよね」

  ふーん・・・。

 

かなりの質的研究が解釈的アプローチ取っているが、認識論と方法論のレベルで違う。

(それでいいんかい・・・(-_-;))

要するにデンジンとリンカンさんの定義は、定式化することの難しさを表してる。

 

〇質的研究の増殖増殖って・・。他に良い翻訳なかったのかな。)

社会学、教育学、心理学、健康科学…。でも、質的研究とは何かというパラダイム的な核心の発展してない。

イギリス、アメリカ、ドイツ、それぞれに違いがみられる。

学問も異なったら、異なる言説になってる。

領域特異的な言説の多様性が大きくなっている。例 健康科学、経営学 評価におけるかなり限定的な質的研究

 
〇基本原理としての適合性(appropriateness)
 質的研究の発展は3つのしかたで適合性の原理に結びつく。
 ①初期のエスノグラフィーの方法が、研究者たちの他者への関心に満たされていた。
 例
・非西洋文化と研究者の西洋文明との違いを理解すること
・比較が比較アプローチに拡張。後にはシカゴ学派のような研究者自身の属する文化の特殊な部分を理解し記述する応用
・異なる発達段階における子供の発達と思考の理解への関心から研究方法を発展させたピアジェもその例
・研究で発見された問題の特徴から生じた。そうした研究に直ぐ適用できる、発展した方法論の欠如から生じた
 
②1960-70 質的研究ルネサンス
確立された方法論とそれを使ってはうまく研究できない問題とのギャップから。
心理学とか社会学とかも、実際は重要だが小規模で理解しにくい問題を掴み損ねていた。で、そういうことがますます増える。そんな経緯が影響してるんだって。
 
③経営から評価までの事例全てで、諸事例に適する質的研究をもとうという要求に促されて、方法論上の特定の言説が発達してきた
 
〇学問としての質的研究、応用という文脈置ける質的研究
質的研究はときに研究目的は研究対象を変化させることであったり、意味のある知識を生み出すことだったりする。
 
〇道徳的言説としての質的研究
研究者の「実践が世界を返還する」ことをデンジンとリンカンは強調
①参与観察とか個人史インタビューとかで、そこに参加してる。新たな洞察をもたらす。中立に振る舞ってるんじゃない。
 
②世界を変えることに関わるべき
「我々は誰の側にいるのか?」(Becker,1967)
質的研究は明らかに政治的、その実践によって世界の変容を目指している。
 

 

続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

読書記録②『やり抜く力 GRIT(グリット)』 それでもGRITが育たない私。

読書記録②

『やり抜く力 GRIT(グリット)――人生のあらゆる成功を決める「究極の能力」を身につける』アンジェラ・ダックワース (著), 神崎 朗子 (翻訳)

 

 遅まきながら、ようやく読みました。周りで読んでいる人が随分多かったのと、書店にずっと平済みになっているので、関心をもったのが手に取った要因です。そして何より三日坊主主義な自分でも「GRIT」(やり抜く力)が身につくのではという下心をもったので…。

 

 まず、率直に言って「わかっちゃいるけどなー」ってな感想です 笑(-_-;)。

要するに『「コツコツ」「根性」が大切だよ』、『やり抜く力を育てるには目標をもって「意図的な練習」を続けなさい』、『親の育て方とか環境も影響するね』、というようなことを様々なデーターから説明をしてくれています。まぁ、なんだかんだ言っても、そうした日々の努力が大切なのは、分かってはいたのですがね笑。努力から逃げたい気持ちになったときに手に取ることで、やる気を起こしてくれる一冊になるかもしれません。

 

作者が著名な研究者な方だけに、様々な統計資料や研究成果、体験談をもとにGRITの説明をしているので、主張には説得力があります。ずば抜けた成果を収める人に対して、私のように人々が「彼は天才だから」の一言で済ませてしまうことが、逃げの口実であることがよくわかります。

 注目したいのは、GRITと幼少期の克服体験の関係や、子育ての関係についても記述されている所です。これは同僚や保護者の方々に紹介したら、とても興味を持って話を聞いてもらえると思います。よいネタが手に入りました笑

 

 みんなが何となくわかっている努力、日々の鍛錬の大切さに対して、しっかり科学的な裏付けをして発信をしたことは大変に価値があることで、教育を生業とし、現在、学問に従事している自分にとって見習うべき一冊であります。何より自分のように三日坊主主義の人々への警鐘を鳴らす一冊であることには間違いありません。さぁ三日坊主の貴方、共にGRITを育みましょう!

 

 

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読書記録① 月と六ペンス

「月と六ペンス」

読んだ本。

一回目がいきなり教育書ではなく失礼。

妻に薦められて読んだ本。通勤電車勉強の頭ほぐしで読んでましたが、一気に引き込まれました。世界的ベストセラー。

薄っぺらい謎解きや恋愛で物語は展開しません。語り手の私と主人公のストリックランド(画家ゴーギャンがモデルと言われてる)の人生に、多くの登場人物が絡み合います。一人一人の人物像と生きざまが丹念に描かれ、芸術に疎い私も、芸術と人の在り方を考えさえられる魅力ある作品です。

翻訳家の金原さんの筆力もありリズムよい会話とヨーロッパの風景、そして私の心の機微が描かれて展開されます。特に狂おしくも自身が目指す最終到達点に、全てのエネルギーを注ぎ込ストリックランドのキャラクターの魅力はすごい。

本当に力ある小説とはこういうことかと思わされました。題名の『月と6ペンス』の意味を考察すると共に、サマセットモームの別の本に手を伸ばしたくなる帰りの車内でした。

※この本には、現代では差別的ととらえられる表現もあります

 

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